地域の文化遺産



佐屋街道一の宿場、佐屋宿

佐屋は、東海道七里の渡し宮(熱田)から桑名への海上路よりも安全性の高い道筋として重要視されるようになった。
安全性の高い道筋として重要視されるようになった。
佐屋街道の佐屋宿には川を挟んで伊勢国とするということで
承応2年(1653)船番所が置かれました。この船番所が
本格的に活動し始めるのは元禄8年(1695)、様々な仕事を
簡単にするために奉行所は廃止されてしまいましたが、天明
元年(1781)、所附代官制として形を変えて代官所が佐屋に
置かれました 佐屋代官所は、尾張藩主徳川義直が、寛永
11年(1634)に建造した、湊御殿が引き継がれたものと
いわれています。当時、佐屋代官所の支配は、海東・海西
両郡(海部郡)百九か村に及んだといわれています。代官所
所跡の碑は、昭和60年11月に建立されたものです。






佐屋宿

佐屋川の川幅は約497㍍あって、将軍徳川家茂が京に向かうとき
佐屋湊に1,101隻もの船がならんだといわれています。また、参勤
交代の時、西国の大名のほとんどが佐屋廻りでした。天明年間
(1781~1788年)ごろ、おかげ参り(伊勢神宮へ参拝)として
江戸地方からくる旅人が多くなり、渡船場は人の山、旅籠は満員で
民家にもとまったほどであったといわれます。記録によると、オランダ
人のケンペル、オランダ医のシーボルト、「水鶏なくと人のいへばや 
佐屋泊まり」の一句で佐屋の名を有名にした松尾芭蕉、近世商人と
して代表的な三井越後屋、高齢をおして全国を歩き測量図を完成
した伊能忠敬らもここを通りました。












三里の渡し跡

佐屋街道は、宮と桑名の間の脇街道でした。熱田神宮正面の
渡し場から分かれて、岩塚万場、神守を通り佐屋に出て佐屋
川の渡し場に至ります。ここから桑名まで船で木曽川をを下り
東海道本道に合流する京都への脇街道として発達しました。
佐屋から桑名まで三里(約12キロメートル)あったので
「三里の渡し」と言われるようになったのです。常時38隻の船
多いときには70~80隻の船が用意されたとのことです。江戸
時代の終わりの頃将軍家重が上洛の際は1101隻にも及ぶ
船が並んだとのことです。明治時代、宿がなくなり、川底が
上がり、三川改修により農地化され約200年間の渡し、湊と
しての働きを終えました。昭和51年9月に三里塚として碑を
建てられました。









水鶏塚(くいなづか)

松尾芭蕉が1694年(元禄7年)5月、江戸から故郷
伊賀の国へ帰る途中、佐屋廻りをし、佐屋の門人で
あった素覧(山田庄左衛門)の家にとまった時に残した
一句が「水鶏なくと人のいへばや 佐屋泊まり」でこの
一句で佐屋の名を有名にしました。
 

佐屋西小学校

496-0903
愛知県愛西市内佐屋町河原136

Tel 0567-26-7212
Fax  0567-24-9133
 

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